| YWCAについて |
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●YWCAとは● |
| ■YWCAとは |
YWCAは・・・
100以上の国々にいる約2500万人の女性たちが力を合わせて、社会のすべてのレベルに女性が参画することによって、社会的正義を実現するために働く、国際的な会員運動体です。距離、言語、文化の壁を越えて、正義が伴っている平和、持続可能な開発、すべての人の人権環境保全のためにYWCAの会員がともに活動しています。
YWCAは、社会的に行動する際の土台としてキリスト教を基盤としており、働くとき、また活動をふりかえるときの指針を示されています。
YWCAは
イエス・キリストの生き方に学びつつ、すべての人々と共に生きる世界を目指します
・地球的な視野で、世界の仲間と協力して働きます
・「女性」の視点で、すべてのいのちを脅かすものとたたかいます
・若い女性のリーダーシップを育てます
・自分を変え、社会を変える力となります
・出会いを通して、希望を分かち合い、一人ひとりの夢を実現します
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| ■名古屋YWCAの歴史 |
| ■会館の様子 |
| ■会員になるには |
| ■各部署へのお問合せ |
| ■グループ紹介 |
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●YWCAのはじまり● |
名古屋YWCA
会員になりませんか |
名YWCAの活動の目的に賛同して、名古屋YWCAの会員になると、併せて日本YWCA、世界YWCAの会員となります。
詳しくはこちらへ |
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YWCAは、今からおよそ150年前に英国の地に誕生した。
1855年、キリスト教信仰に立つ二つの別々の運動が、性格も階層も異なる二人の女性の手で始められた。一つは、ロンドン北部の小さな村に住む、引退した商人の末娘エマ・ロバーツが始めたごく内輪の、静かな精神運動である。父親の所有地で姉たちと女学校を運営していたエマは、37歳のとき、産業化の波にさらわれる若い女性の状態に心を痛め、祈祷会を開くようになった。この祈りの輪は多くの人々に支持され、5年足らずのうちに「プレイヤー・ユニオン」が各地につくられた。メンバーの大半は中産階級の教育を受けた女性たちだったと伝えられる。
もうひとつの運動は、1853年に起きたクリミヤ戦争が直接のきっかけをつくった。当時ロンドンに住んでいたレディ・キナードは博愛主義者の夫を持ち、7人の子どもの母でもあった。疲れを知らない活動家のこの夫人は、海外の植民地への移民船に乗る若い女性のために付き添いの婦人をつけたり、フローレンス・ナイチンゲールと共にクリミヤ戦争の負傷兵の手当に行く女性たちのためにロンドンに宿泊所を設けるなど、具体的な仕事を開拓した。この宿泊施設はそのまま、地方からロンドンに働きにくる若い女性のためのホステルとなった。
ホステルがつぎつぎに開設されると、そこでさまざまな活動が始まった。聖書クラス、集会、教育プログラム、クラブ活動、カウンセリング、ライブラリーなど、どの活動も当時、産業化の嵐の中で都会で働く女性たちが心から必要としていたことであった。後に、どこの国のYWCAも活動の中心におくようになったプログラムが、ここに端を発しているといえる。
この二人の卓越した女性がロンドンで出会い、「堅苦しさはいっさいぬきで、いっしょにお茶を飲みながら」二つの運動をひとつにして信仰に根ざす仕事を発展させようと語り合ったのは、1867年頃だったと、世界YWCAの記録は伝えている。
― 日本YWCA80年史『水を 風を 光を』より―
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1905年、日本にもYWCAが創立され、女性の自立を目指して活動をしてきました。特に第二次世界大戦後は、平和憲法を守ろうと積極的な発言を続けてきました。現在、「平和を実現する人々は幸いである(マタイ5:9)」というテーマの下、国内27の地域YWCAで、
1.憲法改悪への流れを阻止し、第9条を世界平和の礎にする
2.「核」否定の立場から核兵器の廃絶と脱原発への運動を
推進する
3.子どもの人権を守る
4.女性への暴力の問題と取り組む
を運動の課題として、さまざまなプログラムが行われています。
YWCAのマークについて
ブルーの三角形は人間の霊・知・体の完全な成長への願いを表し、中央の線は奉仕と交わりを意味します。 |
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●名古屋YWCAの歴史● |
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名古屋YWCAの歴史は、1930年の労働婦人のための憩いの家「友の家」とともに始まりました。
日本YWCAによって開設され、女子労働問題の調査や無料宿泊所、職業相談、家庭相談、失業者のための授産事業などが行われました。
1931年、名古屋YWCAの設立準備が始まり、1933年2月14日にはヴァン・ウィクリー世界YWCA会長を迎えて発会式を行い、東京、横浜、神戸、大阪、京都についで6番目の市Yとして発足しました。その後、「友の家」事業と合併し、1935年には日本YWCAへの加盟が認められました。 |
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3万円を目標とした募金運動により、市の中心部に会館をという願いが実り、1940年には東区久屋町に会館を与えられました。総合女学院を開設して第一回の卒業生を社会に送り出しましたが、翌年には太平洋戦争が始まり、戦時体制下、事業内容を変えるなど、苦難の時代を迎えました。1945年3月の名古屋大空襲によって会館も友の家も焼失し、活動を停止しました。
さて、敗戦の翌年、1945年には焼け跡の中で早くも、金城教会の明星幼稚園において、活動を再開し、配給品を利用した料理クラスや英語クラスが発足しました。1950年には木造2階建ての会館が再建され、名古屋市公会堂での市民クリスマスの集いや白川町にあったアメリカ村との交流プログラムなど戦後の活動を本格化させていきました。新しい会館がすぐに手狭になるほど少女部、有職婦人部、家庭婦人部等の活動は活発なものでした。
1959年には現在の場所に3階建てのビルを建て移転しましたが、その直後、伊勢湾台風が襲来し、会館は救援活動の基地となり炊き出しや現地での臨時託児所などの奉仕活動が80日間に渡って続けられました。1960年3月、旧会館を移築して西区に「労働センター」を開館し、年少労働者の宿舎提供と地域に開かれた活動が17年間行われました。働く青少年のための活動や青年男女のグループ、中高生のキャンプや野外活動のほか、働く青少年のための活動の募金なども行われ、小学生から青少年を育てる努力がなされました。国際友好グループも発足し、交流プログラムが活発になりました。
1970年、日本YWCAが「核否定の思想に立つ」ことを運動の方針に据え、名古屋YWCAでも核や安保の問題を巡って学習会が開かれ、また、自己の生き方と社会を見つめる学習の場として、託児付きの主婦のための「マザーズ・カレッジ」も1969年から8年間開催されました。「天皇制問題を考える2.11集会」も1975年に第一回が開催され、現在まで続いています。70年代後半から80年代にかけては、核や環境など様々な社会問題を暮らしの問題として捉えて活動の課題としました。
1989年、現在の会館に建て替え、以後現在まで、青少年、女性、福祉、国際の4つの柱を掲げて活動しています。自己尊重・自己主張トレーニングなどの講座、子育て支援など女性の自立支援、女性に対する暴力の問題を考える活動、また、視覚障がい者へのサービスとしての音声訳、点訳、美術館を共に訪ねるガイド、録音電話による情報提供など活動が多様化してきました。一方、日本語学校と日本語教師養成講座を開始しました。
1999年にはウィメンズカウンセリング名古屋YWCA(女性のための心の相談室)が発足しました。2003年に創立70周年を迎え、記念事業として、インターナショナル・ユース・キャンプ&フォーラム「名古屋から☆世界へ−Towards
a Peaceful World」を8月に開催しました。
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